top of page

2025年6月7日。C.S.ドーン・ホライゾン号は、

華々しい初航海の日を迎えた。

 空はよく晴れ、波は穏やかで、誰もが最高の船出になると信じていた。

設計チームの一員であった猫屋敷キリヤはロビーのカウンターに立ち、次々と乗船してくる乗客たちを迎えていた。「自分が設計した船が運航される姿は、自分の目で見届けたほうがいい。」そう勧めたのは、船長・灯火カガリだった。キリヤはこれまでにもクルーズ船で乗客の前に立ち、案内や接客を手伝うことがあった。しかし、何百人もの乗客を乗せる豪華客船でその役目を務めるのは今回が初めてだった。人前に立つことにはまだ慣れない。それでも、自分たちが造り上げた船が人々を乗せて海を進む姿だけは、この目で見届けたいと思っていた。その晴れ舞台大切な人にも見てほしくて、一等客室には家族の部屋も用意していた。しかし、幼い頃に溺れた経験がある妹が今でも水をひどく怖がったため、最終的に家族は乗船しなかった。両親は「また次の便に乗せてもらうよ」と言って申し訳なさそうに笑い、名残惜しそうにこちらを振り返りながら、船を降りていった。

 出航直前、船のバックヤードは慌ただしかった。原因は一人の乗客だった。狐嶋サヤは資産家であり、この船の最上級客室を利用するVIPだった。サヤは、巨大な石をどうしても積み込みたいと主張していた。当初は危険物の可能性も考えられたが、X線検査をはじめ必要な検査では異常は確認されず、法的にも積載を拒む理由は見つからなかった。「大切な美術品です。どうしても手元から離したくありませんの。」そう言って、サヤは最後まで譲らず、やむなく積み込み作業が始まった。キリヤはそのやり取りを無線越しに耳にしながら、出航前のわずかな時間を使って、船着き場の妹と連絡を取っていた。港を離れれば電波は次第に弱くなる。その前に、メッセージを返しておきたかった。

 

 しばらくは、穏やかな航海が続いた。キリヤはロビーのカウンターで乗客を案内し、質問に答え、写真を頼まれ、ときには苦情にも対応していた。人の前に立つ仕事は、思っていた以上に大変だ。中型船のクルージングとは客層も違った。はじめての船にはしゃぐ子どもたちが駆け回っていた。結婚を控えているであろう男女ともすれ違った。何人もの誕生日も祝った。難しい顔でイーゼルを立てる老人には、新造船に絵の具を飛ばさないかと内心ひやひやしていた。本当にいろんな人がいた。それでも、自分たちが造った船が、誰かの人生の節目の舞台になれることが嬉しかった。設計図の上だけでは見えない景色が、ここにはあった。船長が「現場を見ておいたほうがいい」と言っていた意味を理解した。

 

 航行中、下層のクルーからの無線で軽い口論をした。いつもは穏やかな彼が些細な事がきっかけで大きな声で怒り始めたのだ。無線を傍受していたカガリ船長から厳しい一括が入るほどには、明らかに態度が悪かった。下層のクルーはひどく苛立っているようだった。キリヤはその状況について、出航が大幅に遅れる事からはじまり、イレギュラーな事態が続いたからだと、むしろ、気の毒に思っていた。今考えれば、あれはあの石--"オキツメ様”の瘴気によるものだったのだと思う。

 

 そうしているうちにも、船内で異変が起き始めた。波や天候の影響で一時的に電源が不安定になること自体は珍しくない。けれど、この日は予備電源への切り替えが何度も繰り返されており、明らかにおかしい挙動を前に、一刻も早く制御室や貨物室の状況を確認したかった。しかし、船内設備の不調が続いたことで乗客の不安は一気に膨らみ、カウンターには苦情や問い合わせが絶え間なく押し寄せた。現場へ向かいたい気持ちは募るばかりだったが、その場を離れることができなかった。事態は最悪の方向へ傾き続けた。 腹の底まで響くような爆発音が船内に鳴り響き、続いて火災発生の報が入った。さすがにただ事ではないと判断したキリヤは、押し寄せる乗客をほかのクルーに任せて現場へ向かった。そこにいたカガリ船長の表情からも事態の深刻さは隠しきれていなかった。キリヤは下層甲板へ駆け下りた。そこで目にしたのは、想像をはるかに超える絶望の光景だった。

 

 下層は、すでに浸水が始まっていた。例の乗客--狐嶋サヤもそこにいて、浸水した通路を水をかき分けながら例の石のほうへと進んでいた。そのとき、瞬きをするほどの一瞬で、貨物庫に厳重に保管されていたはずの石が、サヤの目の前に現れた。あれほど運び込むのに苦労した巨大な石が、この短時間で貨物倉庫から移動してくるなど考えられない。サヤは狼狽した様子で後ずさると、まるで意思のないはずの石と会話をするように、何かを必死に訴え始めた。次の瞬間、石から無数の黒い手が伸びてサヤの身体を掴むと、そのまま"喰われる"ように姿を消した。彼女を取り込んだ石は、不気味に赤く発光し、何かを吐き出すように眩い光を放つと、その光は天井を貫いて上へと消えていった。その光景は、まるで石の中にいた何かと入れ替わったようだった。

 

 そうしているうちにも、水嵩は増していった。最新鋭の設備はまるで役に立たず、機械という機械が警報を鳴らし続け、この船に一番詳しいはずのキリヤでさえ、どうすればこんな短時間でここまで壊滅的な状況になるのか理解できなかった。考えている暇はなく、目の前の制御盤を開け、片っ端から調整を試みた。発熱したエンジンルームは熱気で息苦しく、本来なら素手で触れてはいけない配管や機器にも手を伸ばした。焼けるような痛みを感じるたび海水で手を冷やし、また制御盤へ戻る。視界の端ではクルーたちが次々と海へ引きずり込まれ悲鳴が響いていたが、目の前の設備を一つでも長く生かすことを優先した。

 

 キリヤがいた部屋は、まだ浸水が遅かった。流入口を塞げば、船の心臓であるエンジンルームが海水に侵される時間を少しだけ稼げると考え、隔壁の扉を閉めた。水圧がかかれば、もうこの扉は開かない。つまり、自分もここからは出られない。密閉された室内で辛うじて繋がった無線に向かい、船長へ状況を報告した。良い知らせは一つもない。そして最後に、「どうか、ご無事で」と伝えた。

 そのときのキリヤは、不思議なほど冷静だった。

自分が死ぬことよりも先に頭をよぎったのは、残される人たちのことだった。家族はこの結末をどう受け止めるのだろう。とくに、まだ中学生の妹にはこれから先も「良い兄」の記憶だけを残してやりたかった。死を目前にした人間から直接言葉を送れば、かえって妹に消えない傷を残してしまうかもしれない。そう考えたキリヤは、妹の面倒をよく見てくれている義弟へ、走り書きのメッセージを送った。"遺言"を書く日がこんなに早く来るとは思わなかった。携帯電話の電波はとうに途絶えており、送信できたかどうかはわからなかった。それでもメッセージを送り終えると、キリヤは大きく息を吸い込み、最後の仕事へと戻った。

 

 そのときだった。人の形をした黒い影が、キリヤを恨めしそうに見下ろしていた。明らかな殺意を宿した触手のような腕が、一瞬で僕の両膝を折る。悲鳴を上げる間もなく身体を掴まれ、そのまま水の中へ引きずり込まれた。海水を飲み、世界がひっくり返った。上下も左右もわからない。船が傾いているのか、自分が回っているのか、それすら判断できなかった。立ち上がろうとしても身体が言うことを聞かない。必死に床へ手を伸ばすのに、掴めるはずの床がどこにもない。肺に流れ込んだ海水が喉を焼き、息ができない。――人は、わずか三十センチの水でも溺れる。何度も聞かされてきた言葉が頭をよぎった。

 

それからは、ただひたすらに苦しかった。

心の底から、死にたくないと思った。

あれほど格好をつけて無線を送り、遺言まで残したというのに、死の間際に支配した感情は、理不尽な結末を受け入れられない激しい拒絶だった。どうしようもない怒りと憎しみ、そして恨みの感情に呑まれながら、キリヤは意識を手放した。

 上層では、灯火カガリ船長と残されたクルーたちが最後まで乗客の避難誘導を続けていた。救命艇を降ろす準備も進められていたが、安全装置の制御を失い、一隻として正常に使用することはできなかった。本来なら海面へ浮かぶはずの救命艇さえ、何かに引きずられるように次々と海底へ呑み込まれていった。もはや、助かるための手段は残されていなかった。それでも、船内に残ったすべてのクルーが、この状況を覆そうと奔走し、誰一人として諦めなかった。

 

しかし、その懸命な努力が実を結ぶことはなく、豪華客船「C.S.ドーン・ホライゾン号」は沈没した。

 沈みゆく人々の足元には、青白い手が幾重にも絡みついていた。水底には、おびただしい数の白い手と"オキツメ様"が、亡骸の山のように折り重なっていた。船へ積み込まれていた石は、群れからはぐれた子鴨が仲間のもとへ帰るように、ゆっくりとその中へ降りていった。石は溺れた乗客たちを取り込むたびに赤く脈打つと、内側から何かが抜け出すように白い光が立ち昇っていった。

暗い海の底で、その光景だけがいつまでも繰り返されていた。

x_22.png
  • X

代表 

HakaStLaurent

サインの原本.png

©2025 ​HakaStLaurent

bottom of page